銅鐸はどこから


                青木實

はじめに

 1980年、佐賀県で銅鐸の鋳型が出土致しました。その時の様子を西日本新聞の記事が伝えています。しかし2000年まで、九州から銅鐸の出土は一度もありませんでした。
 その後2002年、吉野ヶ里遺跡でついに銅鐸そのものが見つかり、それまで定説だった銅矛は九州、銅鐸は中国、近畿説というのは覆されました。
 九州で銅鐸が出土してからは、銅鐸は果たしてどこから来たのかという起源説まで話は進んできました。
 その後、2006年3月7日付の朝日新聞に『新発見、古代の中国、越の国の時代の磁器鐸』という記事が掲載され、大きさはやや小さめですが、吉野ヶ里遺跡で発見された銅鐸に大変似た形状をしたものでした。 さらに2015年4月8日、南あわじ市の工場の砂山の中から多くの銅鐸が発見(5月1日までに7点確認)されました。
吉野ヶ里遺跡で出土した銅鐸は高さ40㎝ほどのものです。

復元図

鉄と青銅

 鉄器と青銅器が中国や朝鮮から入ってきたのは弥生時代(BC10世紀~AD3世紀)の中期といわれている。しかし沸点が低く、比較的加工しやすい青銅器が日本で生産されるようになり、鉄器に関しては、弥生時代の後半から古墳時代になってようやく生産が始まったようです。青銅はを主体にを混ぜた合金で、さらに成形し易くするためにも加えられる。
 青銅はこの銅と錫の配合比により、様々な用途に用いられた。強度が要求される武器には錫は10%未満に抑えられ、光沢が命の銅鏡などは20~30%の錫を配合した。銅鐸はおおよそ5~20%位の配合比率で錫が使われていた。

銅鐸とは

 さて、銅鐸とはいったいなにものなのか?この疑問は子供のころからずっと抱いていた謎である。そこでまず辞書でという言葉を調べてみた。すると、昔、中国で使われていた、柄のついた鈴のようなもので、柄を持って振ると音が出て、政治的な儀式のときに使われたようだと記されていた。そういえば今から20年ぐらい前に、重慶博物館を見学した際、展示物の中にそれらしきものがあったと記憶している。中国には昔から篇鐘という楽器があるが、それとも違う。かといって銅鐸とも似てはいるがやはり異なる。いろいろ調べていくうち、この鐸に似ているので銅鐸と名付けたということが分かった。
 ではこの銅鐸は、どのような用途に使われたのか?いろいろ言われているがどれも確証はない。よってこれから先は考古学的な事実とは異なるとは思うが、諸説を総合して考えられる一つの結論を出してみたい。
 この銅鐸は権力の象徴であると考えると何となく、納得がいくような気がする。青銅そのものは大変貴重なものであり、これを所有していた者は相当な権力者であったに違いない。権力を鼓舞するために使用したとするならば、どのように使われたのか。
 弥生時代は稲作文化の時代ともいえる。銅鐸で音を出して植え付けの合図を村中に響き渡らせた、ということは十分考えられる。村が大きくなるにつれ、より大きな音を轟かせるためにも、銅鐸はさらに大きくなったと考えるのはそれほど矛盾はない。様々な大きさの銅鐸が出土しているのはある程度納得がいく。また様々な祭事にも使われたに違いない。祭事に「音を出して使用する」ことは権力者の存在を示すためにも大きな力を発揮ことでもある。
 権力者のそばにある銅鐸は、それ自体が畏れ多いものとしての象徴でもある。神や仏の存在以前の時代、銅鐸はある意味、神仏に近い存在ではなかったか。つまり銅鐸のもう一つの存在意義は「見せるための銅鐸」だったのではないか。音と姿かたちから権力者の威厳を示すものが銅鐸だったとすれば、なるほどと思えなくはない。
 銅鐸の表面には様々な絵が描かれている。稲作に関連したものや狩猟に関したものが多く、なぜか日本に最も多く生息しているイノシシよりも鹿の絵が多い。鹿の角は生え変わるので、再生を象徴する動物が、稲作の豊作祈願と重なるという設を立てる学者が多い。

銅鐸はどこから

 そろそろ本題に戻ろう。銅鐸は弥生時代中期(学者によっては前期説も)に生まれ、同後期を待たず姿を消している。古墳時代の遺跡からは未だ出土していない。何らかの理由でその生産は打ち切られたと思われます。銅鏡はその後平安時代ごろまで造られていたのに、銅鐸は一切造られていない。まことに謎である。このことは今回、深入りせず、別の発表者にゆだねたい。
 多くの学者は、その由来を朝鮮半島からとしている。その理由として銅鐸に使われた鉛が朝鮮半島産のものだからだ。しかし、後半には中国河北産の鉛が使用され、日本産のものはまだ使われていない。日本産の鉛が青銅器に使われるようになるのは7世紀以降である。いずれにしても銅鐸に使用された鉛は輸入品なのである。
 朝鮮や中国から輸入した鉛を使用して、銅鐸が造られたのは事実です。しかもそれは弥生人によってです。当初の銅鐸は小型のもので、先に紹介した磁器の鐸にかなり似ています。吉野ヶ里遺跡で銅鐸が出土し、その型と思われるものが佐賀県鳥栖市の安永田遺跡から見つかり、同型の鋳型から造られたと思われる数多くの銅鐸が島根県の遺跡から見つかっている。由来を朝鮮半島説と唱える学者は、数多く島根県加茂町で、この小型の銅鐸が出土しているので、距離的にも近い朝鮮説を主張しているが、九州から持ち込まれた小型の銅鐸を、島根県地方に渡来した楽浪郡や高句麗以前の渡来人によって再生産されたのではないかと主張する。
 一方、九州には、楚に敗れた越(?~BC334)の人たちが日本に逃げてきたといわれ、彼らの知恵によって佐賀県安永田あたりで銅鐸を生み出したという仮説も可能です。
 先に述べたように、中国江蘇省無錫市のBC470年ごろの越の国の貴族の墓から、原始的な磁器の鐸が4個発見され、高さ20センチ、幅12~18センチの鐘型で、表面には蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの虎や蛇の模様のついたつり手がついている。このようなものは中国の歴史書には記されているが、実際に出土したのは今回が初めてだ。青銅器や鉄器を携えて日本に来た渡来人が、最初に手掛けたのが加工しやすい青銅器で、銅鏡や銅鐸ではなったかと想像される。
 弥生時代の青銅器は極めて貴重なものである。これらを制作するには高度な技術と、鋳造に関する精度の高い鋳型の制作や、金属材用を溶かすための炉や燃料、それに合金の材料が必要となる。こうして見ていくと、銅鐸を製造していくにはかなりの規模のインフラや、その原材料を集めるために部落や村を超えた社会基盤が必要であったことが想像される。
 楚に敗れた越の軍の集団が技術者を伴って九州に渡来し、朝鮮半島を経由して入ってきた青銅器を溶かし、銅鐸を造ったと考えるのは大きな矛盾はない。つまり小型の銅鐸に含まれる鉛は朝鮮半島産だからである。その後大型化した銅鐸には中国産の鉛も使用されている。
 朝鮮産の小銅鐸について、少し触れておきたい。朝鮮半島からもいくつか小銅鐸が出土している。小銅鐸と言われるぐらいだから当然15~20センチぐらいである。一見、無錫市から出土した磁器鐸に類似点が見られるが、模様は全くない。そしてなんといっても日本の銅鐸との大きな違いは両翼の鰭(ひれ)が全く見当たらない。文献などからこれは現地で鈴のような楽器として使われていたようだ。こうしてみると、現在、我々が博物館等で目にする銅鐸は日本産ということになる。
 造った人が渡来人であれ、昔からいた日本人であれ、銅鐸は日本のものである。戦後、軍需物資として使われていたトランジスタを使って、ソニーが携帯ラジオを作り、アメリカに輸出したら、飛ぶように売れた。小細工といってしまえばそれまでだが、これは日本独自の智慧と考えてもいいのではないか。
 謎の多い銅鐸に取り組んだ私には、この謎を解くには荷が重すぎると思います。しかしここまでお話してきた以上、何らかの結びを申し上げねばなりません。
 日本人はいろいろな民族の集合体と考えるのが打倒ではないでしょうか?南や北から縄文人がやってきて、比較的平和な縄文時代がありました。縄文時代後半から、稲作が九州に上陸し、弥生時代は西の中国や朝鮮から様々な文化が日本に入ってきました。稲作によって食糧事情は改善されましたが、同時に強力な武器も入ってきました。争いごとの始まりです。謎の多い銅鐸に取り組んだ私には、この謎を解くには荷が重すぎると思います。しかしここまでお話してきた以上、何らかの結びを申し上げねばなりません。
 東を除く三方から入ってきた文化は日本に留まり、醸成され、さらに高度な文化へ進んでゆきました。川崎や鎌田、それに墨田、東大阪の町工場から生まれた高度な技術の総称を「下町ロケット」に例えられるように、ある意味で今回の銅鐸は日本人の技術の結晶ではないかと思えるのです。
 銅鐸は弥生人、否、日本人が造った謎に満ちた青銅器なのです。越人の智慧や朝鮮半島からの渡来人の智慧が一杯詰まった不思議な青銅器ではないでしょうか?中国や朝鮮半島からの渡来人もすべて、今は日本人なのです。
 今回、この銅鐸を取り上げてみて、改めて日本人の技術力の素晴らしさを見直しました。今は東、つまりアメリカからも日本に智慧が届いています。しかし、世界に名を轟かせたソニーもここ数年、陰りが見え、液晶でテレビ界のヒーローだったシャープも今や風前の灯です。とはいえ、これから先、東西南北すべてから集まった智慧を、世界に広めて行くことが、日本人に与えられた使命であるということを今回、改めて教えられました。    …おわり…





銅鐸が発見された記録は、『扶桑略記』の天智天皇7年(668年)、近江国志賀郡に崇福寺を建立するのに際して発見された記述が最古であろうという。ただし、天智期の記事を詳細に記しているはずの記紀は、この出来事について全く触れていない。『続日本紀』には、和銅6年(713年)、大和宇波郷の人が長岡野において発見した記事があり、『日本紀略』には、弘仁12年(821年)、播磨国で掘り出され、「阿育王塔鐸」とよばれたとある。
来源 : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8
来源 : 續日本紀巻第六 / 続日本紀 上代古典集∥埋もれ木


来源 : 蓬左文庫
『続日本紀』国史大系版 巻第六
《 和銅六年( 七一三)七月丁卯( 六)》○丁卯。
大倭国宇太郡波坂郷人大初位上村君東人得銅鐸於長岡野地而献之。高三尺。口径一尺。其制異常。音協律呂。勅所司蔵之。

資料来源 : 日本文学電子図書館

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