漢詩の紹介 (比留間長一 副会長)
「漢詩に惚れ込んで」
 私が初めて漢詩に因んだテーマで発表したのは、2002年3月の例会でした。そして毎年のように漢詩の発表をつづけ、すでに10回におよんでいます。そんなことから、新しい会員さんも増えていますので、当時の発表を思い出しながらから記してみたいとおもいます。
第一回 「陶淵明の風景」
(1) 陶淵明とは?「帰去来の辞」や「飲酒」の詩のイメージから、田園詩人とか酒の詩人の印象を持っている人が多い。しかし陶淵明全集にあるいろいろな詩を読んで見ると、一筋縄ではいかない人物像が浮かび上がってくる。
(2) 代表的な「詩」
「帰去来の辞」
官職についたが家に帰りたい気持ちが起こり、妹の死を機に即刻役人を辞め田園に帰り、その喜びを謳う。
「飲酒」其の五
秋の夜長に閑居のつれづれに毎夕、酒を飲み、酔った後、気ままに書きつづる。
(3) 陶淵明が生きた時代 陶淵明は四世紀から五世紀にかけ、東晋王朝の中期から末期、南北朝の宋の初期におよぶ63年間を生きた。つまり中國史上有数の混乱期に生涯を送っている。
(4) 1.陶淵明は、南方に廬山が展望できる自然環境のなかで成長したので、閑静な生活に憧れ世俗に一定の距離をおく性格が育まれた。
2.しかい彼は現実を直視する政治感覚を持っていたし、同時に理想主義者としての人格的な素質を備えていたと言える。もし彼が寒門の出ではなく世俗の出であったとしたら、高級官僚になって政治的な影響を与えたかもしれない。そこに彼の挫折があり、「出仕」と「隠棲」との間で激しい葛藤となったと考えられる。
  彼の潔癖性は、清濁あわせ飲む政治家特有の境地に身を置くことを拒否したともいえる。今日残るかれの少ない作品は、理想主義者陶淵明の真骨頂といえる。
第二回 「詩聖・杜甫の詩その苦悩と憤りの人生」
(1) 杜甫の有名な詩といえば、まずは五言律詩「春望」であろう。 国破れて山河が有り城春にして草木深し………この有名な詩は、至徳元年(756年)玄宗の皇太子・粛宗が北方の霊武(甘粛省)で即位すると、杜甫は馳せ参じようと旅立った。しかし途中で賊軍に捕えられ、長安で8ヶ月にわたる捕虜の苦しい生活を余儀なくされた。この時詠んだのが「春望」である。44歳ではじめて仕官となった杜甫が詩に託した思いは如何ばかりであったろうか。
  また「曲江」其の二の七言律詩にある……人生七十古来まれなり……の一句はあまりにも有名である。
(2)杜甫は生涯で3000首ほどの詩を作っている。しかし若い時の作品は、ほとんど消失し、現存する作品は1500首である。李白が絶句を得意としたのにたいし、杜甫は律詩を得意とした。
  杜甫はリアリズム精神によって、多くの作品のなかに当時の社会と民衆の生活を写し出している。
(3)杜甫は名のある家系と代々地方長官を務める家柄に生まれ、子供の頃から経書にふれて儒教的ヒューマニズムを学んだ。そして彼の理想主義的人道主義は一生変わることがなかった。杜甫は家名を背負い経世済民 の志をもって社会に出たが、科挙の試験に及第することができず、青春の挫折を味わった。「杜甫、一生愁う」という苦悩と憤りの人生を歩まざるを得なかった。
  杜甫は戦乱と貧困の中で家族の生活を守るため、時代に翻弄され、浣花草堂での安息の六年を除くと、放浪と貧困に呻吟した一生であった。 そして懐かしい故郷長安・洛陽に思いを馳せながら、湘江の舟中で五十九歳の生涯を閉じた。
第三回 「漢詩・酒の詩 美酒と宴遊」
(1)先秦時代 (共飲共食)
  最初の詩は「詩経」である。「詩経」は中国最古の詩集である。黄河流域の諸国や王宮で歌われた詩歌305首を収めたものである。儒教の経典の一つとされた。内容は、周王朝の比較的安定した時代に相応しい明るい叙情詩から、混乱期を反映する暗い叙情詩まで多彩である。しかし数の上で最も多いのは恋愛詩である。
(2)漢魏・六朝時代(宴飲独飲)
  漢代の歌謡である五言詩の発生。「詩経」の後、短詩型文学は長らく不振であったが、漢代に入って、ようやく息を吹き返す。しかし、もはや「詩経」の四言詩ではなく、五言詩へと道を歩みだしていた。そして後漢末に五言詩が短詩型文学の主流となり、中国詩史に一時代を画する。
(3)唐代(酣歌酔吟)
① 王績(初唐)。
王績はまた酒好きで知られている。自由奔放な人物で、当然のことながら役人生活は肌に合わなかった。実質的には隠者として生涯を終えた。
② 王維(盛唐)。
後世、王維は「詩仙」の李白、「詩聖」の杜甫にたいして信仰が厚かったので「詩仏」とよばれるようになり、宮廷詩人として名をなした。
③ 李白(盛唐)。
42歳の時、玄宗の朝廷に召されたが、豪放な言動が多く、讒言によってわずか2年で長安を追われた。
④ 杜甫(盛唐)。
玄宗の「開元の治」の時代に靖超したが、科挙に及第せず、遊歴すること10年におよんだ。さらに長安で浪人生活10年におよんだ。最後は潭州(湖南省)から岳州へむかう船のなかで失意の生涯を終えた。
第四回 「漢詩 ―女性・恋愛を詠う―」
(1)中国文学の環境
  古典中国の世界では、長らく文学と政治が不可分の関係にあった。しかし詩を広く見渡してみると、上記と異なる文学の正当な領域があった。それは人間の自然な感情発露でもある恋愛である。これこそが政治の容喙を許さぬ文学最後の砦であった。
(2)恋愛至上主義
  礼教が建前の社会制度下において、女性が自分の人格を主張する手立ては、女を最も端的な形で打ち出すこと…つまり恋愛を実践することであった。女流詩人たち、例えば魚玄機のような狂奔な生き方であった。政治のアンチテーゼとしての恋愛詩、これが中國の恋愛詩がもつ偏向の第一である。
(3)礼教の拘束
  詩人もまた士大夫の一員であり、建前から外れる言動を示すことは、容赦なく士大夫階級から切り捨てられた。それで情愛のなかでも異性にたいする詩篇は中国文学のなかでも伏流となって文学者の感情表現を片隅に押し込めてしまった。これが偏向の第二である。
(4)女流の増加
  まず時代が降りるにしたがって、女性の作者が増えている事実である。李清照という女流作家いた。彼女は北宋の滅亡から南宋への動乱期を生きた人で、詞の名作を沢山のこしている。
 また清代はじめの袁枚は、好んで女弟子の育成に努めたようだ。中唐までの女流作家は、いわゆる才媛であった。しかし唐代も半ば以降は工業生産の飛躍と都市商業の繁栄によって色街の発達をうながした。こうした色街に集まった妓女のなかから詩文をよくするものが輩出したのである。魚玄機はこうした女性の一人である。
第五回 ―政治と戦乱のなかで詩人はうたう―
(1)中國詩の特徴
 「一治一乱」という言葉が『孟子』の謄文公下編にある。また『越絶書』という書物は「三千五百歳に一治一乱し、終わりて復た始まる」と治乱の循環を説いている。国内では主権争奪による王朝の交代があいつぎ、国外では異民族に脅かされてきた。これに洪水や地震などの災害が加わる。これらの人災・天災はすべて政治の反映であるというのが中國古来の考え方であった。
(2)中国の詩はおよそ三千年の歴史を持つが、この政治における治乱興亡の渦中にあって、詩もまた政治の影響を色濃く映していることを最大の特色とする。詩人達は社会の事象の背景にある政治を常に意識していたし、天下国家にかかわることを見つめ、歌うことを第一義とした。 中國において「風雅」というとき、その概念は『詩経』の風・雅・頌という範疇の分類に発している。
(3)古代中國では、『詩経』以後、南方の『楚辞』をのぞけば新しい詩歌集が編まれることはなかった。詩経の解釈も、各編ごとに制作事情を説明している「小序」によって見ると、やはり詩は社会を反映している。それは、いつ、どのような社会状況にあって、政治のどの点を美め、どの点を刺ったのかという歴史的事実との結びつきが強調された。
(4)漢の武帝の時代に儒教が国家公認の思想となった。そして文学は政治の得失美刺するものだという主張がなされ、動かし難い真理として後代の文学を規制するとともに、政治に関与する文学および文学者の地位を高めるようになった。漢代に流行した辞賦の第一人者・司馬相如は、辞賦を書く才能を武帝に認められて側近に召し抱えられた。このようにして文学者が社会的地位を得て生計を立てていく道が開かれた。そして同時に文学者が官僚でもあるという後世まで主流となる中国人の生き方の原型ともなった。
第六回 ―友情と別離を詠う―
(1)中國の詩の歴史のなかで、友情の詩が目立ってくるのは、後漢(25~220)から三国(~265)にかけての門閥貴族社会への移行期である。
(2)友人に関する言説が見られるのは、孔子の時代あたりからである。そして孟子、荀子という儒家の系列の思想家によって受け継がれている。
(3)春秋から戦国時代にかけて中國社会は、大きな変革期をむかえた。殷周以来?氏族制社会が解体し、官僚制度を整備した中央集権的な国家が登場してくるのである。
(4)欧陽修は「君子と君子とは、道を同じくするを以て明を為し小人と小人とは利を同じくするを以て明を為す」(明党論)といっている。しかし実際には、個々の人間をはっきり区別することは不可能であり、「君子」も「小人」も同一人格の中に共存していたのが実情であった。
第七回 ―隠逸と田園をもとめて―
(1)太古、人が自然の中に生き、ごく単純な暮らしをしていた時分は、隠逸だの田園だのということに当然関心はなかった。人知が進み人間の世界が複雑になると、その煩わしさを厭い自然の世界に逃れようとする動きが起こる。都市が形成され、そこに生活するようになると、田園が恋しくなる。
(2)中國では早くより文明が開けたから、隠逸や田園への関心もまた早く芽生えた。古くは『易経』の中に「世を逃れれば憂い無し」の語が見える。『論語』の中にも、桀溺や荷篠丈人などの隠者が現れる。『老子』では「聖を絶ち、智を棄てよ」とか、「学を絶てば憂いなし」とか、小賢しい知恵を去って単純な生き方を唱えている。
(3)春秋から戦国へかけて、社会が発展し、学術や思想が花咲く裏側に、それから脱れて姿を隠す人物もまた多く現れたのである。だがこの時代、そういった人物像を詠う詩や隠逸やその住み家としての自然を詠う詩は、まだ形を成していない。
(4)『詩経』は中國最古の詩集で、紀元前十二世紀から、紀元前六世紀に至る間の作品が集められているが、そのような内容を詠うものはない。田園を詠う詩は幾つもあるけれど、隠者の住み家ではなく、古代の農作業の場として詠うものばかりである。
第八回 ―山水と風月を詠う―
(1)詩が自然を詠うのは、およそどの国の詩にも共通して。しかし中国の詩は、とりわけ自然の描写に熱心な文芸であるといわれている。実際、中国のどんな詩人の集いをとってみても、遊覧の詩のような自然の景を直接に対象にする作品の場合はむろんのこと、もっと広く社会、人事をテーマとするような作品の場合であっても、自然の描写を含まないものは稀である。中国の詩において自然の景はほとんど不可欠の素材であったといえる。また景と情が巧みに融けあい、渾然一体となったところに詩の最高の境地を見ようとする考え方も中国詩一流の美学である。
(2)古代歌謡……『漢書』芸文志などの古い文献中に「登高能賦」つまり山に登って詩を作ることを、教養人の重要な資格とする記載がよく見える。そうしてみると、自然を観察して詩作する習慣は、よおそ古くからあったようだ。しかし自然を純粋に詩の対象とし、自然美そのものを詠うことを目的とした、いわゆる叙景詩、自然詩と呼べる程のものは、まだ古代の作品には見られない。
(3)魏・晋・南北朝の詩……魏晋南北朝時代になると、詩人たちが古代の神秘的な自然感から自然に解放され、純粋に自然の美を詠ずる時が登場した。東晋から南朝にかけての時代に田園詩の祖とされる陶淵明と山水詩の祖とされる謝霊運が出ている。
(4)唐の詩……唐の時代は中国の詩の黄金時代であり、自然の時代の面でも実に豊かな成果をあげている。この時代は李白、杜甫をはじめ幾多の有名詩人を輩出している。
(5)宋の時代……宋詩は、その担い手である文人官僚たちが余裕のある楽観的な人生観の持ち主であったから、いきおい唐詩的な激しいエネルギーは喪失しつつも、逆に理知的で平坦な詩風を開拓し、中國詩の歴史の上で唐詩と並びたつ輝かしい存在となった。
第九回 ―行旅と辺塞の詩―
(1)古代の旅は中国に限らずどこの国であろうと、時代が古ければ古いほど、人々にとって家を離れて旅に出ることは命がけであった。道路の治安状態は悪く盗賊や猛獣が横行し、嵐や崖崩れなどの天然の災害、あるいは病気など道中の危険は数しれず、生きながらの別離がたちまち死別に転じる恐れがあった。
(2)旅に出るケースとは戦争であり、要塞などの土木工事であり、徴用であった。ユーラシア大陸の東端に位置する中国は、南北、西側が必然的に他国と地つづきで、歴史的にもまた現在においても国境の紛争はたえず悩まされてきた。
(3)中國3000年の長い歴史は周辺の諸民族との攻防の歴史であったといえる。国境に出征した将兵の心情と、将兵の帰りを待つ家族の思いをテーマとする辺塞の詩は、中国の歴史の最初から存在していたといえる。

    inserted by FC2 system